暦をもっと身近に活用するために
旧暦とは太陰太陽暦のことです。ここでは「太陰暦・太陰太陽暦(旧暦)・太陽暦」それぞれの特徴や違いを。また関連して朔望月、閏月や閏年といった置閏法、二十四節気やメトン周期について。そして大混乱を招いた明治の改暦と年中行事に与えた影響についてまとめてみました。


【1】旧暦とは「太陰太陽暦」のことです

1-1.暦を三つに大別すると

太古の昔より人間は自然と共に暮らしてきました。そして、狩猟生活から農耕生活を始めるにあたり「時期」を知ることは、生きるためにも不可欠なことでした。やがて私たちの祖先は季節の変化、また月や太陽・星の動きに一定の循環や法則を見出し、それを生活に結び付けるようになりました。





これが暦の始まりです、暦には途方もない歴史が刻まれているのです。こうして誕生した暦を大別すると、

  • 太陰暦
  • 太陰太陽暦
  • 太陽暦

この三つに別れます。そして現在の私たちが使っている暦が「太陽暦」です。ただしここ日本でこの暦が採り入れられたのは、明治5年(1872年)のこと、まだその歴史は浅く150年ほどです。一方、明治の改暦まで使われていたのが「太陰太陽暦」です。太陽暦が新暦であるのに対し、「旧暦」とはこの太陰太陽暦のことを指します。

1-2.旧暦を知ることの意味

太陰太陽暦(旧暦)は、6~7世紀に中国から伝来されました。その後改良を繰り返しながら明治の改暦までの1200年以上にわたり、日本人の生活や自然観に密接に関わってきたものです。そしてこの旧暦を知ることこそ日本の文化や伝統行事をより深く理解することであり、暦から運気を解くカギともなるのです。

では太陰暦から見てみましょう。



【2】一年で11日のズレ!太陰暦とは

2-1.一カ月を29日半とした理由

「太陰」とは月のことです。太陰暦とは月のかたち(満ち欠け)で日にちを数えることです。月は地球の周りを約29日半かけて一回りします、そしてこの間、月のかたちは新月(見えない)から始まり、三日月・上弦(半月)と輝きを増し満月を迎えます。そして満月を過ぎると今度は欠けはじめ、下弦(半月)となり再び新月に戻ります。これが月の満ち欠けです。





月はこのような一定のサイクルを繰り返します。そしてこの間、見えるかたちや時間も毎日変わり、その違いが(太陽や星とは異なり)とてもわかりやすいのです。太陰暦とはこのような月の運行を基準に、約29日半を一カ月としたものです。そしてこのサイクルを「朔望月(さくぼうげつ)」ともいいます。ちなみに月の姿が毎日変わるのは、月と太陽の位置関係によるものです。




2-2.暦の日付と季節のズレ

太陰暦では一カ月を約29日半としたので、

  • 29日の月(小の月)
  • 30日の月(大の月)

を繰り返し12カ月で一年としていました。したがって太陰暦においては一年は約354日となっていたわけです。でも、地球は太陽の周りを365日かけて一回りしますね。するとおわかりのように、
・365日-354日=11日
一年で季節と太陰暦の間に約11日ほどのズレが発生してしまいます。


そしてこのズレは放置すれば広がるばかり、これでは暦として使い物になりません。種まきや収穫・収納の時期を把握するためにも、季節に合った暦を知ることは非常に重要なことでした。そこでひと工夫されたのが次に説明する「太陰太陽暦」です。



【3】ズレを「閏月」で調整!太陰太陽暦とは

3-1.天保壬寅元暦とも呼ばれています

太陰暦における季節と暦のズレ、これを「閏月(うるうづき)」を挿入することによって調整したのが「太陰太陽暦」です。そして前述の通り「旧暦」と呼ばれている暦がこれです。この暦は6世紀ごろ中国から伝来され、その後改良が加えられながら明治の改暦までの永きにわたって使われていたものです。ちなみに最後、幕末から明治にかけて使われていた暦は「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」とか天保歴と呼ばれています。

3-2.「二十四節気」が閏月を設ける基準でした

では年間に発生する約11日のズレを「閏月」でどのようにして補正したのでしょうか。年に11日のズレのズレなので、約3年で一カ月となってしまいますね。このためおよそ3年に一回程度「閏月」を入れ一年を13カ月としたわけです。今の私たちから見ればずいぶん大胆な方法ですね。そしてこの閏月を設ける基準が「二十四節気」でした。





太陰暦は月の運行を基準としたものです、これに対し太陽の運行をもとにした一年を、季節ごとに24等分したのが「二十四節気」です。これまた古代中国で考案されたものであり、季節の指標となったものです。二十四節気は、毎年同じ時期に同じ節気がめぐり、それぞれの間隔もほぼ一定です。そして半月ごとの季節の移り変わりにも対応もできることから、天候に左右される農作業の準備や目安としても重宝されました。

3-3.節気と中気とは

二十四節気は立春や春分、冬至や夏至など今でも季節を表す言葉として親しまれ、また年中行事や時候の挨拶などでも使われています。一年を「春夏秋冬」の4つに分け、さらにそれぞれが6等分され節気(せっき)と中気(ちゅうき)が交互に並びますが、
・「節気」は季節を分けるもの
・「中気」は月の名前を定めるもの
とされています。たとえば春を例にしてみると節気と中気は「月」の欄に表されており、雨水・春分・穀雨が中気に当たります。

二十四節気 春

二十四節気名新暦の日付
立春(りっしゅん)1月節2月4日頃
雨水(うすい)1月中2月19日頃
啓蟄(けいちつ)2月節3月5日頃
春分(しゅんぶん)2月中3月21日頃
清明(せいめい)3月節4月5日頃
穀雨(こくう)3月中4月20日頃


3-4.中気がない月ができる理由

この中気の間隔は太陽の動きを基準にしているため
365日÷12=平均30.4日
となります。
ここへ朔望周期(月の動きをもって基準としたひと月)を割り振るわけです。ただし、こちらはひと月が29.5日ですね。すると(ややっこしい説明は抜きにして!)中気と中気の間隔よりも約1日短いため、約3年ごとに中気を含まない(月名を付ける事ができない)月が出てくるのです。


そして「中気のない月」を閏月として、ひと月を挿入し調整していたのです。 したがって単純に12月の後に「13月」を追加していたわけではありません。また中気のない月なので「月の名前」が決まりません、そこで「閏五月」のように、その直前の月の名前に「閏」とつけていたのです。

3-5.置閏法とメトン周期について

このように「閏月のある太陰暦」が太陰太陽暦です。月日は月の満ち欠けから、そして季節は太陽の動きから定め調和させていたのです。こんなことが大昔から行われていたのです、暦とは奥が深いものではないですか。ちなみに「閏」を挿入し調整を図る方法を「置閏法(ちじゅんほう)」といいます。


話のついでに「メトン周期」って知っていますか。これは19年間に7回の閏月を設ければ太陰暦と太陽暦とのズレは調整できる、月の満ち欠けと季節の調和した太陰太陽暦ができるとした「周期」のことです。「19太陽年は、235朔望月にほぼ等しいという周期」などとも解説されています、いったいどういうことでしょう。

メトン周期とは・・・
(※注意)大ざっぱな解説なので、詳しいことは専門書などを参考にしてください!

太陽暦における1年は約365.25日です(4年で端数が1日になるので閏年で調整しています)、したがって19年間では、
・365.25日×19年間=約6939日
となります。

一方太陰暦における「ひと月」は約29.5日ですね。
したがってこの6939日は、
・6936日÷29.5日=約235カ月
この通り太陰暦にでは約235カ月に匹敵します。

そして太陰暦における19年間に、7回の閏月を設けると、
・12カ月×12年=144カ月
・13カ月(閏月)×7年(回)=91カ月

となり、合計すれば
・144カ月+91カ月=235カ月!

この通りほぼ太陽暦とピッタリになるわけです、いかがでしょう。興味を持たれたら専門書などの「正しい解説」で理解を深めてください!


3-6.十九年七閏法とも呼ばれています

ちなみにメトン周期の「メトン」とは、この周期を発見された古代ギリシアの天文学者の名前です。しかしその発見は紀元前432年ことなのだとか、すごいものですね。メトン周期は19年に7回の閏月を挿入するところから、暦法では「十九年七閏法」とも呼ばれています。また古代中国でも一九年七閏の法が紀元前より知られており、こちらでは「章」といいます。。



【4】「大混乱!」12月2日の次の日を翌年1月1日にした理由!太陽暦とは

日本もやがて明治になり太陽暦を使う外国との取引が始まると、交渉ごとにおいて日付けの確認が大変であったことは想像がつきます。そして改暦の気運も高まり、明治6年より「新暦」導入の運びとなりました。





この改暦に当たり明治5年12月2日の次の日を、明治6年1月1日にしたことは有名な話です。


4-1.改暦は明治6年1月1日のことでした

そして今、私たちが使っている暦は「太陽暦」です。長年親しまれてきた太陰太陽暦からこの「新暦」へ改暦したのが明治6年1月1日のこと。この太陽暦とは、地球が太陽の周りを一回りする期間約365日をもって一年として、基本的に4年に1回閏年を設け調整するものです。したがって「月の満ち欠け」は関係はありません。ただし一年を12カ月としたのは、旧暦(太陰太陽暦)のなごりであるようです。

4-2.太陽暦のメリットがわかりますか

太陽暦のメリットをあげてみると・・・

  • 旧暦に比べ季節のずれがありません、農耕などでも時期による計画がしっかり立てられます。
  • 閏年の設定も、複雑な旧暦のシステムと違いシンプルでカンタンです。
  • 諸外国との交渉ごとも、共通の暦を使うことによって日付け上のトラブルはなくなりました。

などでしょうか。ただ私たちはこの新暦しか知らないわけです、だからそのメリットと言われても旧暦の知識がないとピンとこないのです。また現在使用されている太陽暦は「グレゴリオ暦」といいます、これについては別途解説してみます。


4-3.改暦の布告!「太政官布告・第337号」

そして改暦の布告「太政官布告・第337号」により旧暦は廃止、明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日として改暦をしたのです。しかしこの法律が正式決定されたのは明治5年の11月9日のこと。公布から改暦までの期間が1ヶ月もないという慌ただしさ。年の瀬も迫っており翌年の暦は印刷されすでに販売もされていました、しかしこの法律により全部パー!紙屑になってしまいました。

4-4.「財政逼迫」政府が改暦を急いだ理由

この布告はまさに電撃発表であり、当然ながら庶民の生活に大混乱を招きました、特に弘暦者(暦屋さん)には大損害をもたらし、盆暮れの掛け売りが多かった商人にとっても迷惑この上ない話でありました。しかし政府が改暦を急いだのには理由があったのです。それは政府の抱えていた「財政問題」です。これにつきましては大隈重信さんの「大隈伯昔日譚」の中でも語られています。

当時、公務員の給料はすでに月給制を採用していたのですが、翌年明治6年は「閏月」、13か月分の支払いが発生します。政府の財政はひっ迫しており、これは悩みのタネでもありました。そこでこのタイミングで改暦を行えば、閏月の支払いだけでなく今年12月分の月給もチャラにできるのです。まさに一石二鳥!ではないですか、こうして政府の要人だけで改暦計画は極秘裏にすすめられ、無茶というか強引な発表となったのです。

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【5】「月遅れ」とは、年中行事がバラバラに行われている理由

5-1.新暦ではおよそ一カ月季節が早くなりました

この改暦により一カ月がすっ飛んでしまったため、新暦ではおよそ一カ月季節が早くなりました。さらにそれまで旧暦の日付で定められていた年中行事が、新暦の日付に置きかえられましたので、各行事における季節の意味合いも薄れてしまいました。そして引き続き世間は混乱を極めたのですが、そこで考え出されたのが「月遅れ」です。





例えば「月遅れ盆」ですね。お盆は旧暦における7月15日、新暦では8月15日頃となります。したがって地域によっては新暦の同日(7月15日)ではなく、旧暦の時期に合わせた8月15日に行われたりしています。このように旧暦における行事をひと月遅らせることにより、季節のズレを調整したものが「月遅れ」です。



5-2.桃の節句なのに桃は咲かないのです

しかし「日付」に意義がある行事、たとえば桃の節句(3月3日)や端午の節句(5月5日)などでは月遅れは採用されていません、桃の節句なのに桃は咲かないのです。ただ同じ五節句である7月7日の「七夕」の場合、旧暦におけるこの日は新暦では8月6~8日となり「梅雨明け」です。でも新暦において7月7日は梅雨の真っ最中ですね、仙台の七夕祭りは旧暦に合わせ8月に「月遅れ」で開催されています。




5-3.春節は旧暦におけるお正月です

またすっかりおなじみになった中国人の爆買い、もっとも賑わうのは「春節」ですね。春節とは旧暦におけるお正月のことであり1月の下旬です。中華圏の諸国ではこの日が伝統的な祝日となっています。このように旧暦と新暦において、発生した一カ月のズレについては、

  • 新暦の日付で行われるもの。
  • 一カ月後の月遅れで行われるもの。
  • 旧暦のまま行われるもの。

といった三つの対応があり地域によっても対応は異なっています。

ここ日本の場合、明治の改暦が強引であっただけでなく旧暦における年中行事をどう移行させるのか、ハッキリと制定されていなかったからでしょうか。このためカレンダーに書かれている年中行事の日程も、これれら入り混じりバラバラに存在しているのです。

いかがだったでしょうか。暦にはこのような「歴史」があるのです、失われつつある季節感を日本の伝統行事と共に見直してみませんか。日本は旧暦と共に暮らしてきたのですから!暦をもっと身近に活用してみましょう、きっと新しい発見があるはずです。




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